歴史

先史時代

 北神に最初に来た人類は大陸南方から来たミートカモイドと考えられています。

 一方、最近では紀元土から氷期の狭い海峡を渡ってテガノイドが来たという説も支持を広げています。 

 北神人は両者の混血とされていますが、テガノイド的形質をより強く持っています。

 

 紀元前4世紀以前の北神先住民は石器を使った狩猟採取生活を行っていました。

 

 北神に文明がもたらされたのは紀元前4世紀頃と考えられています。

 既に高度な文明を築いていたテガノイドである北方紀元土人がこの頃から北神へ渡航・移住して来る様になりました。彼等を渡来人と言います。

 渡来人は粟や麦の栽培、馴鹿の牧畜、機織り、青銅器・鉄器の鋳造、文字等を北神に伝えました。

 

西楓王朝

楓豊
楓豊

 紀元前290年、紀元土大陸の二大国、楓と塵の戦争が終結し、楓が滅亡しました。

 楓氏の者達は塵軍により大陸の端に追い詰められ、そこから海上へ逃散しました。その中で、最後の楓王である紀瑞の孫、豊、兎佐、弥の三人とその部下らが北神に到達します。

 彼らは既に北神に来ていた渡来人の助けも借りながら美郷半島一帯を統治し、楓豊を王とする西楓王朝を創設しました。これが北神に誕生した最初の国家です。

 尚、建国の過程に関しては伝説的要素があり、実際の建国者は楓豊ではないという説もあります。

 

 渡来人や彼らから技術・知識を授かった北神人達はこの頃独自に自治組織を形成していました。

 西楓王朝の出現以来、彼等はその先進的な統治機構に習い様々な小国を建てるようになりました。

 結果、北神半島から南神半島にかけて小国が乱立するようになりました。

 

小国乱立と佐不

 紀元前二世紀から乱立した小国は絶えず争いを繰り返しました。

 

 紀元前一世紀になった頃から南神にあった佐不という国が隆盛し、周囲の国々を次々と征服していきました。

 そして紀元前2年、遂に佐不は北神半島の端まで上り詰め西楓王朝を滅ぼし、北神と南神を統一しました。

 

 併し佐不の治世は長く続きませんでした。

 14年に北神紀奈伊が奈能府で反乱を起こして一帯を制圧をし、2年後北神朝を創設しました。都は鮫附に置かれました。

 北神朝は勢力を拡大し、28年に南神で佐不を滅ぼしました。

 

北神・利安・立山

 一世紀半ば、南神に利安と呼ばれる実態不詳な集団が出現し、南神の統治を始めました。

 71年、利安は耶振関を超えて北神半島に侵入、北神と戦争状態に陥りました。利安は116年までに長田までを制圧しました。

 116年に緩衝地帯を設けて停戦の協定を結び戦争は終結します。

 

 198年、北神と利安の緩衝地帯であった新岶に立山朝廷が出現します。

 これは情勢不安な緩衝地帯で形成された自警組織が発展したものです。

 

 245年、北神朝が立山朝を滅ぼそうと戦争を仕掛けました。併し立山朝の反攻を抑える事が出来なかった北神朝は270年に滅ぼされました。

 

 北神北部の先進地域を支配した立山朝は278年になると利安に侵攻を始めました。

 これを受けて利安は284年に首都を南神の庄京に遷しました。それまでの首都が何処だったのかは諸説あります。

 304年、立山朝の領土が楓関嶺山脈に到達し北神半島全土を制圧しました。立山朝は利安へのこれ以上の侵攻をしませんでした。

 

南蛮征伐

 277年に利安は征南蛮衆を組織して未開の南方への征服を開始しました。

 初代征蛮将の斧部悍奈玉水を建設し、此処を南蛮征伐の拠点としました。

 二代征蛮将城築兼比等率いる征南蛮衆は更に南進し、311年遠祁でニカグヌチと衝突しました。城築兼比等はこの時撤退した事を責められ処刑されました。これによって征南蛮衆は利安に対して不信を強めました。

 

 これ以後、利安では朝廷派の斧部氏と城築氏派の征南蛮衆が対立する状態に陥りました。

 利安朝廷は城築氏を滅ぼそうとしましたが逆に都近くの掖上まで攻め上げられる等苦戦し、結局滅ぼす事は出来ませんでした。

 

 346年、城築頼比等南羅国王を称し城築朝廷を創設。城築朝南羅が利安から独立しました。

 城築朝廷は封建制を採用しました。首都は玉水に起きました。

 

 その後城築朝は次々と南方に領土を拡大し、384年にはニガグヌチを滅ぼしました。

 

鴨田庄・物部・後北神

 392年、鴨田庄氏が反乱を起こして利安を滅ぼし鴨田庄朝廷を建てました。鴨田庄朝の版図は南神半島一帯です。

 

 南羅の城築朝廷は406年に王家が断絶し、410年から物部朝廷が後を引き継ぐ事になりました。

 

 5世紀頃から立山朝、鴨田庄朝、物部朝はそれぞれ紀元土大陸の嗣との交易を盛んに行うようになります。

 この交易で嗣の文化が両神や南羅にも入りました。製紙法に代表される進んだ技術や仏教がそれです。

 

 6世紀は気候が温暖になりました。これに伴い降水のあり方等も変化し、各地で旱魃や洪水が起きました。

 この結果、各国共に農業が打撃を受け国力が落ちました。反乱も多発しました。立山朝では朝廷の腐敗がそれに拍車を掛けました。

 

 608年、塩沢樺皮 祥雲が反乱を起こして立山朝を滅ぼし、後北神朝廷を建てました。

 祥雲は北神朝の治世が理想の物であると考え、それを再現しようとしました。併しこの国はすぐに滅びる事になります。

 

浮服襲来とその後の混乱

 589年から浮服と呼ばれる南方の部族が南羅に侵入し始めました。

 浮服は非定住生活を送る実態不詳な自治集団です。各地で略奪をしながら生計を立てていました。元々の居住地域は大遠祁と考えられています。

 

 浮服は強大な戦闘能力を有しており南羅軍を次々と破って南羅を北上しました。612年には玉水を攻め落とし物部朝南羅を滅ぼしました。

 浮服は更に勢いを増し615年には鴨田庄朝南神を、620年には建国12年しか経っていない後北神朝を滅ぼしました。

 

 北神人国家を次々と滅ぼした浮服でしたが、彼らは領域統治には興味を示さず各地を転々として略奪の限りを尽くしました。

 国家統治を失った両神と南羅では各地で有力武士や豪族が割拠する状態になりました。浮服、武士団、豪族が互いに戦いを繰り広げる戦国時代が始まりました。

 

 627年、浮服を追い払った礼蘭氏が礼蘭朝廷を建てました。礼蘭朝廷は醐坊を首都とし、北神南部や南神で勢力を拡大しました。634年には南神半島全域が礼蘭朝の物になりました。

 630年には新仙(北神北部)を鮫附の仏教勢力が制圧し新仙陀羅尼国を建てました。

 南羅での戦乱は長引き、653年に漸く沙方氏と名郷氏の和約で戦乱が治まりました。同年、沙方氏は南羅帝王を称し沙方朝廷を創設しました。沙方朝は野杖を首都としました。

 655年には新仙陀羅尼国と礼蘭朝の版図の間隙に大南越山朝廷が創設されました。創設者は浮服の血を引く大南越山 信虎です。

 

300年の安定

 

 655年の時点で北神~南羅には北から順に、新仙陀羅尼国、大南越山朝、礼蘭朝、沙方朝が並ぶという状況になりました。これより後、この態勢は約300年間続きました。

 7世紀中頃の新仙陀羅尼国での二北上戦争(神道勢力の反乱)、8世紀前半の沙方朝での回教徒反乱、10世紀前半の沙方朝への土禿侵攻等の争乱もありましたが各国は権力を維持し続けました。

 この比較的安定した期間に各地で様々な文化が栄え、経済活動も活発になりました。

 

 10世紀後半から新仙陀羅尼国と礼蘭朝でこの安定が綻び始めます。

 

 新仙陀羅尼国では各地の有力者が中央寺院に従わなくなり自治を始めました。当初陀羅尼国はこれを武力で鎮めようとしましたが治まらず、997年に各勢力の自治を認め中央政治に参画させる事にしました。一先ず混乱は収まりましたが中央寺院は権威を失いました。

 

 礼蘭朝では災害や調停の腐敗により反乱が多発しました。

 968年に関越 兼悛が都の醐坊を制圧、1004年には兼悛の息子の関越 兼頼関越朝廷を創設しました。

 北神南部と南神で関越朝と礼蘭朝は激しく争い、1024年に礼蘭朝が滅びました。

 関越朝の首都は醐坊に置かれました。

 

新仙邑衆

 1008年、新仙陀羅尼国は県を廃止し邑を設置しました。邑は県より自治権が強く各地の有力者が統治しました。新仙陀羅尼国は中央集権国家から邑の集合体で成る連邦国家へと変化しました。この状態から陀羅尼国は新仙邑衆と呼ばれるようになりました。

 邑衆を統括していた中央寺院の権力はますます衰え、1011年から1023年にかけての新仙戦争で陀羅尼国は事実上崩壊しました。

 

 これ以後各邑が様々な利権を巡って争いを起こすようになりました。その中で武士が台頭し権力を奪取する者も現れました。

 この戦乱の状況は1152年の日宮条約締結まで続きました。この条約は邑境を現状の状態で確定し一切の戦闘を行わないという取り決めでした。この条約締結の背景には、統制の無い新仙の征服を目論む醴捧院朝(1100年に大南越山朝に代わって成立) の脅威がありました。

 日宮条約以後、邑間の対立は経済競争と化し、広大な庄園を持つ大商人達が勃興する事になりました。

 

 1342年、二北上地震が発生し新仙邑衆は大打撃を受けました。新仙は混乱状態に陥り既存の有力者の没落と新興財閥の出現が起きました。

 1352年、二北上会議で大商人が実行支配している庄園と邑を「庄邑」として等しく扱う事、これらの自発的合併を認める事が取り決められました。これで日宮条約の態勢が崩壊しました。庄邑の所有者は大庄屋と称されました。

 以後有力な庄邑が周辺の庄邑を次々と併合していき、最終的に10の庄邑にまとまりました。1401年、これの庄邑が新仙聯合国を結成し、大公を首長とする一つの国家となりました。大公職は苗場庄邑出身者が殆ど独占しました。

 

 1466年、醴捧院朝の圧政を逃れて来た難民の処遇を切欠に、醴捧院朝と新仙聯合国の間で戦争が起こりました(醴捧院戦争)。

 新仙聯合国は関越朝と協力して醴捧院朝を攻め、1469年に醴捧院朝は滅亡しました。

 醴捧院朝の領土は新仙聯合国と関越朝によって分割されました。

 

南羅帝国

 沙方朝では紀元土の国々との交流を経て14世紀前半から産業革命が始まりました。

 1374年、沙方義秀は自らを皇帝と称し、国号を南羅帝国に改めました。

 15世紀には南羅帝国は南方を次々と征服し植民地を獲得していきました。こうして世界の列強諸国と肩を並べました。

 

 15世紀終盤、ザカト帝国が北神の植民地化を狙っている事に気付いた南羅帝国は危機感を覚え、関越朝と新仙聯合国を保護国化しようとしました。

 併し両国共にそれを拒んだ為、南羅帝国は武力による征服を初め、1496年に関越朝を、1497年に新仙聯合国を滅ぼしました。

 南羅帝国が憂慮した通りザカト帝国は北神を狙っており、新仙聯合国滅亡直後に鮫付沖でザカトと南羅の海戦が発生しました(鮫付事件)。

 

 南羅帝国は両神を植民地ではなく本国の一部として扱いました。これは元を糺せば北神も南羅も同じという考え方に基づきます。

 帝国統治下で両神は急速に近代化しました。

 

 北神の独立志向は強く、1590年に南羅帝国は新仙礼蘭共和国の独立を認めました。

 新仙礼蘭共和国の領土は現在の北神公国連邦本土に相当します。

 

 

新仙礼蘭共和国と夏戦争

 1596年、南羅戦争が始まりました。南羅帝国とマズレグ条約機構(社会主義国の同盟)諸国との戦争です。

 当初優勢だった南羅帝国軍は97年末以降劣勢となり、1602年1月に首都水円京が陥落、皇帝家は処刑され、南羅帝国は滅亡しました。

 それ以後も南羅を次々と占領していったマズレグ条約機構軍は、同年6月、突如国境を越えて新仙礼蘭共和国への侵攻を開始しました。夏戦争の始まりです。

 北神、南神が激戦地となり、諸都市が灰燼に帰し、多くの民間人を含む犠牲者の数は天文学的なものとなりました。

 9月までにマズレグ条約機構軍は新岶まで北上しましたが、大煬帝国、老鄧、メジロフが共和国側で参戦した事により形成は逆転しました。

 翌年3月、ユストファル条約により戦争は終結しました。この条約では無政府状態となった西楓列島南部と北神北部をメジロフが、北神南部と南神、南羅北部を老鄧が、南羅南部と遠祁を煬が委任統治する事になりました。

 

 1604年、南羅は南羅共和国として独立を回復し、同年新仙礼蘭共和国も独立を回復しました。

 この時、大煬帝国と老鄧の委任統治領が南羅に、メジロフの委任統治領本土部が新仙礼蘭共和国として独立した為、北神半島の半分以上と南神は南羅の領土となりました。こうして残った新仙礼蘭共和国の土地は今では「本領北神」と呼ばれています。

 

 1615年、京 礼が新仙礼蘭共和国の大統領に就任しました。京 礼の下で新仙礼蘭共和国は復興し経済発展を成し遂げました。併し京 礼は以後任期を終えても大統領職に居座り続け、独裁者と化しました。30年代以降は失政を繰り返し、国民の不満は高まっていきました。

 

 

北神革命とその後の混乱

 1646年3月13日、陸軍中将の南富吉原 佳偉が率いる正国社が京政権を打倒すべくクーデターを起こしました。併し簡単には成功せず、京政権と正国社による内戦に陥りました。

 正国社は大庄屋達を説得し、戦後の大庄屋の身分保障と引き換えに支援を受けました。大庄屋の人脈や資金等の支援に押されて正国社は攻勢を強め、3月31日遂に京礼政権を打倒しました。

 同日、南富吉原は北神公国連邦の建国を宣言。大庄屋との約束を果たす為には国の構造を今迄とは根本的に変える必要がありました。

 あくまで当時の政権の打倒を目的して始まったクーデターは紆余曲折を経て国家を変える革命となったのでした(北神革命)。

 

 北神公連建国の翌日4月1日、京政権の残党が醐坊で醐坊共和国の建国を宣言、これを新仙礼蘭共和国の正統な後継であると喧伝しました。

 醐坊共和国は南羅共和国の支援を得て北神公連への抵抗を続けました。

 南羅・醐坊と北神公連は散発的に武力衝突を繰り返しました。47年には醐坊派勢力が南仙公国西部で伊奈原独立国を建国する等、北神情勢は混迷を深めていきました(北神内戦)。

 

 48年3月、初代北神公連統括局長の南冨吉原が逝去し、高潮山 輝将が第二代統括局長に就任しました。

 高潮山は紀元土大陸南方の国々と結びつきを深める事により内戦の最中にありながら連邦の力を増強させました。

 

 49年2月、北神公連は無政府状態だった西楓列島と夏島列島の併合を宣言。更に同月、南羅に対して大規模な攻勢に出て南羅領の北神半島中南部と南神半島を制圧しました。こうして北神公連の領土は今の状態になりました。

 同年6月に北神公連、醐坊共和国、南羅は停戦に合意しました。革命後の混乱は漸く一つの落ち着きを得ました。

 

 

戦争と平和

 北神内戦が終了し、北神公国連邦は平和と繁栄の道を歩み出しました。併し、それは長くは続きませんでした。

 高潮山統括局長の就任以来深まってきた北神と丹陽の関係が、複雑な紀元土の国際情勢の歯車に噛み合わず一転して悪化します。

 結局大煬帝国と丹陽は第六次陽煬戦争を始め、1651年から北神公連は大煬帝国側で戦争に参加しました。52年に明訓会談で戦争は終結し、丹陽の北部領土(月証回廊)を北神公連が占領統治する事になりました。

 

 1652年9月、高潮山 輝将は統括局長を辞任し、その座は支奈義山 英徳が引き継ぐ事になりました。

 支奈義山政権になってから北神公連は大きく変化しました。政府による弾圧が著しく緩和され、言論の自由が認められたのです。死刑が廃止され国民は粛清に怯える必要が無くなりました。

 本領外の開発や諸産業の回復で北神経済が成長を始めました。

 

 1658年から支奈義山統括局長は連邦の構造改革に着手します。併しこれは大庄屋との対立で頓挫しました。更に月証回廊では朔陽第十四旅団等の反政府組織との紛争(月証紛争)が起き、北神公連は月証回廊を手放す事を余儀なくされました(61年に丹陽に返還)。

 1660年、支奈義山統括局長は改革の失敗を受けて辞任します。その後、第四代統括局長に西水砂 泰慥が就任しました。

 

 西水砂統括局長は大庄屋と協調しながら連邦の構造改革を行いました。1663年には民主化や三権分立を確立し、改革を成し遂げました。独裁政権打倒の為のクーデターから始まった北神革命、それから約17年、北神は漸く民主化されたのでした。

 そして今に至ります。